Beings

どうしようかな

認識は存在を規定するってやつの実用

認識は存在を規定するということは別に新しい発想ではないと思う。このくだりを実用できる場面がここ数年あって本日漸く分かってきた。

というのは、ドイツに移ってから言語間における実存的命題の認識に対して違いがあることに気付いた。実存的命題Q(x)とは

∃x∈D | Q(x) あるxはDに属する

といった形の命題で「港区に東京タワーがある」や"There is an idiot"といった物の実存を述べる命題のことを指す。この手の命題Q(x)の妥当性を証明する方法は最低一つの物xが領域D内に存在している例を提示する事で成り立つ。

面白い事にドイツ語で同じことを言う場合は„Es gibt"となり、直訳すると「それは〜を与える」という事になる(フランス語も同じらしい)。つまり物は存在しているのではなくて与えられているといった考え方になる。英語にはこうやった違いがなかったので結構驚きである。

この様に物の存在に対する認識が記号として違うので、表現を知っただけでもイメージを正しく認識しないとそれだけ状況把握がズレていく。

他にも「どんな〜ですか」といった物の性質を問う質問も„Was für"といった形式を取る。直訳すると「なんのために〜ですか」といった質問になる。つまりドイツ語における存在の性質と意義は同義に近い物らしい。ドイツ人がやたらと意義や性質について確認したがるといった話を人から聞くけどこう言う事だ。

確かに人間の生活に関連する物の性質を突き詰めると、多くのものが人為的に加工された物であるから意義の話に到達してもおかしくない。

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こういう背景について考えるとドイツからショーペンハウアーハイデガーフッサールが出てきたのも頷けるし、フランスからポストモダニズムが生まれたのも納得がいく。だって日本語的な考え方からしたら実存は本質を先立つ!と言われても、日本語という言語がそう示唆しているから新鮮さが感じられない。

かといって、近代哲学って言葉に囚われすぎじゃないか?と思う自分もいる。95年のソーカル事件でデタラメな論文を提出しても学術的に認められてしまうという哲学の現状はもう言語で考えられる限界に近付いたことを示唆している様に感じられる。言語は所詮思考を共有するために生み出された音と記号を用いた伝達手段に過ぎないので、重要な部分は言語化する前のヒトの思考の普遍性や安定性にあると僕は感じる。自然言語を数学的に組み立てる事が可能といった点から数学にも限界がある様に感じられる。